最高裁判所第一小法廷 昭和54年(あ)423号 判決 1981年10月22日
主文
本件上告を棄却する。
理由
弁護人高村文敏、同阿河準一、同宇賀神直、同金澤隆樹、同久保和彦、同佐藤義弥、同竹澤哲夫、同東垣内清、同林伸豪の上告趣意第一章ないし第三章、第五章第三のうち、違憲をいう点は、国家公務員法一〇二条一項、人事院規則一四―七・五項一号、六項八号による特定の候補者を支持する政治的目的での投票の勧誘運動の禁止が憲法二一条に違反しないこと、国家公務員法一一〇条一項一九号の罰則が憲法二一条、三一条に違反しないこと、国家公務員法一〇二条一項における人事院規則への委任が憲法に違反しないこと、行政的な裁量の余地がなく機械的労務を提供するにとどまる非管理職の現業公務員が、勤務時間外に、その職務又は職務上の施設を利用することなく行つた投票の勧誘運動に、前記罰則を適用しても、憲法二一条、三一条に違反するものでないことは、いずれも、当裁判所昭和四四年(あ)第一五〇一号同四九年一一月六日大法廷判決・刑集二八巻九号三九三頁、昭和四六年(あ)二一四七号同四九年一一月六日大法廷判決・刑集二八巻九号六九四頁の各趣旨に徴して明らかであるから、所論は理由がなく、同第四章は、市民的及び政治的権利に関する国際規約(昭和五四年八月四日公布条約第七号)のわが国における発効により前記罰則は失効し、犯罪後の法令により刑が廃止されたときにあたるから、刑訴法三三七条二号により被告人に対し免訴の判決をすべきであるというもので、同法四〇五条各号の上告理由にあたらず(なお、国家公務員法、人事院規則の前記罰則は、右国際規約一八条、一九条、二五条に違反するものではない。)、その余は、違憲をいう点を含め、実質はすべて単なる法令違反の主張であつて、適法な上告理由にあたらない(なお、被告人の本件所為が国家公務員法一一〇条一項一九号、一〇二条一項、人事院規則一四―七・五項一号、六項八号により禁止された投票勧誘運動にあたるとした原判断は、相当である。)。
よつて、刑訴法四〇八条により、主文のとおり判決する。
この判決は、裁判官中村治朗の補足意見、裁判官団藤重光、同谷口正孝の反対意見があるほか、裁判官全員一致の意見によるものである。
裁判官中村治朗の補足意見は、次のとおりである。
一政治活動の自由は、自由民主主義国家における最も重要な基本原理をなし、国民各自につきその基本的な権利の一つとして尊重されなければならないものであるが、他方、国の公務、なかんずく国の行政に従事する公務員については、行政の中立性と能率的な運営及びこれに対する国民の信頼の確保等の要請から、その行動基準として政治的中立性が要求され、その政治的活動に対し一定の制約が課せられてもやむをえないと解すべきであることについては、当裁判所のいわゆる猿払事件大法廷判決(昭和四四年(あ)第一五〇一号同四九年一一月六日大法廷判決・刑集二八巻九号三九三頁。以下「猿払事件判決」という。)における多数意見と反対意見もその見解を一にしているところである。両者が分かれるのは、右多数意見が、右の意味での行政公務員の政治的中立性をそこなうおそれのある政治的行為の禁止は、それが合理的で必要やむをえない限度にとどまる限り、憲法の許容するところであり、合理的で必要やむをえない制限であるかどうかは、右の禁止の目的と禁止される政治的行為との間の合理的な関連性があるかどうか、右禁止によつて得られる利益と禁止によつて失われる利益との間に均衡を失するところがないかどうかの観点から判断されるべきものであるとし、この観点からみた場合、国家公務員法(以下「法」という。)一〇二条一項、人事院規則一四―七(以下「規則」という。)五項三号、六項一三号による文書の掲示又は配布の禁止は、合理的で必要やむをえない限度を超えるものということはできず、右規定による禁止は、それが違反に対する懲戒の原因となる場合であると刑罰の原因となる場合であるとを問わず、憲法に違反するものではないとするのに対し、反対意見は、行政公務員の政治的活動の禁止については、それが雇用者としての国が国の行政事務に従事する公務員に対する雇用条件としてこれを定める場合と、一般国民に対する統治権者としての立場から刑罰権の発動原因となる事由として公務員による一定の政治的行為の禁止を定める場合とでは、おのずから憲法上許容される禁止の限度ないし範囲を異にするものがあり、前者の場合には禁止目的のために必要又は適当と合理的に判断しうる範囲であれば憲法に違反するとすることはできないが、後者の場合には、当該禁止が公務員の政治的活動の自由の利益に明らかに優越する重大な国家的、社会的利益(この場合には行政の中立性、ひいては行政公務員の政治的中立性の保持という利益)をまもるために真にやむをえない場合で、かつ、その内容が真に必要やむをえない最小限の範囲にとどまる限りにおいて憲法上是認されるのであつて、単に国家的、社会的利益をまもる必要があるとか、当該行為に右の利益侵害の観念的な可能性ないしは抽象的危険性があるというだけでは足りないとし、このように両者の間にはそれぞれ合憲的に禁止しうる政治的行為の範囲に相違が存する以上、立法府である国会が、この間になんらの区別を設けることなく、一律に禁止の内容及び範囲について特定的な定めをする権限を行政機関である人事院に委任することは、少なくとも刑罰の対象となる禁止行為についての立法の委任に関する限り、憲法に違反し、無効であるとする点に存するのである。
私は、公務員の政治的活動の制限、禁止が公務員の雇用条件の一つとして定められる場合と刑罰原因として定められる場合とでは、その性質を異にするものがあり、憲法上許される制限、禁止の範囲についても、後者の場合は前者の場合よりもより厳格な基準によつてこれを律すべきものとする右反対意見の見解は、十分な合理的根拠を有するものと考えるが、立法の委任に関して右意見の説くところについては、現在では同調することができないと考えている。すなわち、立法の委任がその対象事項と委任の目的と委任立法権を行使するにあたつて則るべき基準の設定という要件をみたしてされる限り、その委任自体は憲法に違反するものではないことは右反対意見の説くとおりであるが、このようないわば形式的要件をみたした立法の委任であれば、たとえ右委任にあたつて示された目的や立法基準が一部違憲な法規の制定をも許容するような内容上の不当性を有する場合でも、委任そのものを全部無効とし、ひいてこれに基づく規定の全部の効力を否定する必要はなく、憲法に違反するような内容の立法をも委任した部分、したがつてまた、現実に制定された規定中かかる憲法違反の内容を有するもののみを無効とすれば足りるものと考える。それ故、本件における法一〇二条一項における人事院規則の委任についても、多数意見の認めているように委任についての前記の形式的要件が充足されている以上、刑罰法規の内容となる面においては立法基準がゆるやかにすぎるという憲法上の欠陥を帯有するとしても、そのためにこの関係において規則の全部の効力を否定することは妥当とはいい難いと思う。
二委任の効力について右の見解をとつた場合に次に生ずる問題は、規則の定める各禁止規定の刑罰法規としての効力のいかん、これをいかなる基準によつての判定すべきか、という問題である。この点に関する猿払事件の多数意見と反対意見は、前述のように、行政の中立性とその能率的運営及びこれに対する国民の信頼の確保という公共の利益のために、行政公務員の政治活動の自由に対し、一定の範囲において刑罰の制裁を伴う禁止を施すことも憲法上可能であること、どこまでそれが可能かについては、禁止の必要性の有無についての判断と、制限によつて得られる利益とこれによつて失われる利益との間の比較考量を行わなければならないとする点においては共通しており、両者の相違は、右の考量判断をするにあたつてとるべき態度、すなわち規制を許容する方向に比較的ゆるやかな眼を向けるか、これに対してより厳しい態度で接するかという判断のし方の違いに帰着するように思われる。その一つのあらわれが、前者においては行政の中立性とそれに対する信頼の確保という保護法益を極く抽象的、一般的な形でとらえ、これに対する侵害やその可能性の存在が抽象的、一般的に肯認される限り規制の合憲性を肯定しようとする態度となり、逆に後者においては、右の法益に対する現実の侵害ないし侵害の具体的危険性の存在が認められることが必要であるとの見解の表明となつているものと推測されるのである。
私は、一般論としては反対意見のとつている態度が正しいのではないかと考えているが、しかし、そのいうように現実の侵害ないしその具体的な危険性の存在が認められない限り禁止を合憲とすることができないとの基準をすべての場合に適用するのが正しいかどうかについては、疑問をもつている。すなわち、規則は、五項の政治的目的の列挙と六項の禁止行為の態様の列挙との組合わせによつて禁止されるべき政治的行為を具体化しているのであるが、それらの規定をつぶさにみると、禁止の対象が比較的特定されているものから比較的広範かつ包括的なものに至るまで区々にわたつており、しかもそれぞれの禁止行為が行政の中立性やこれに対する国民の信頼等に及ぼす影響の性質、内容、程度及びその政治的自由に対する制約の内容、性質、程度もさまざまあつて、これらの多岐多様な禁止規定のすべてを同じ基準で処理すること自体果して妥当なりやの疑問が生ずるのである。しかも、行政の中立性やこれに対する国民の信頼等行政公務員の政治的中立性を要求する理由となる法益に対する侵害の危険なるものは、それ自体極めてとらえ難い観念であり、抽象的、一般的には容易に肯定できても、その具体的な存在を明確に示すことが困難な場合も少なからず存すると思われるが、この場合に後者の要件がみたされなければ禁止は許されないとの態度を固執すれば、結局禁止そのものを断念しなければならない場合が出てくることになり、果してそれでよいのかという疑問が生ずるのであつて、行為自体がその性質上公務員の政治的中立性に強く抵触すると考えられるようなものとか、行政の中立性に格別影響を及ぼさないような場合もないではないが、それは極く例外の場合に限られるというような行為については、抽象的危険の存在をもつて足りるとして差支えない場合もありうると思うのである。
三右に述べた見解に立つて本件の場合をみると、本件で問題とされているのは、規則五項一号、六項八号の規定、すなわち「公選による公職の選挙において、特定の候補者を支持」するという政治的目的をもつて、「選挙においてその候補者に投票する……ように勧誘運動をすること」を禁止し、その違反に刑罰を科することとした規定の合憲性である。
思うに、公職の選挙は、代表民主制の下においては最も重要な政治的出来事であるが、同時にこれをめぐつて展開される行動は、それ自体政治的意味の強い、かつ、一般に党派的色彩を帯びた行動ということができる。公職の選挙において特定の候補者の当選を得させるために積極的な選挙運動をする行為のごときは、そのような党派的政治性を強く有するものであり、その者がこのような関与行為をした動機や関与の態様のいかんによつて右の政治性に濃淡の差が生じうるとはいえ、行為自体としての右のような評価をされてもやむをえないものがあるといわなければならない。そしてこのような選挙運動に対する積極的な関与行為は、行政公務員の政治的中立性に著しく反するような性質の行為であり、行政の中立性やそれに対する国民の信頼の確保等かかる行政公務員に対する政治的中立性の要求の理由とされる法益侵害の危険性を一般的に肯定して差支えないような性質のものといえるのではないかと思われる。沿革的にみても、法一〇二条の母法と目されるアメリカの連邦法における行政公務員の政治活動への積極的な関与の禁止は、公職選挙と行政公務員との深い結びつきから生ずる行政の中立性やその能率的運営の阻害等の弊害を防止することを主たる目的として生れたものであり、行政公務員による選挙運動への積極的関与の禁止こそがその中該をなすものであつたことに照らしても、右のようにいえるであろう。もつとも、わが国においては過去にアメリカにおけるような猟官制の顕著な弊害といつたようなものを経験したことはないが、多かれ少なかれこれに似た弊害を生ずるおそれがないとはいえないし、更にこのほかにも、行政公務員が選挙運動に組織的、集団的に動員されたり、多数の者がこれに積極的に参加することによる弊害の可能性も、決して現実性の乏しい、単に観念的なそれにすぎないものということはできないのである。もつとも、猿払事件の反対意見も指摘するように、当該公務員の属する行政主体の事業の内容及び性質、その中におけるその公務員の地位、職務の内容及び性質等のいかんにより、選挙運動への積極的関与が上記法益に及ぼす影響の程度や重要性に相違が生じうることは十分に考えられるところであるが、その個別的測定は困難であるのみならず、上述した多数者の行為による累積的、波及的効果という面の弊害とは直接の関連性をもつとは思えないから、同じ態様の積極的関与行為について右の要素を考慮して合理的な区分を施さなければならないとするのは、必ずしも妥当とはいえない。また、関与行為が職務と無関係にされたかどうか、勤務時間外に、勤務場所以外の場所でされたかどうか等は、職務専念義務などとの関係では大きな意味を有するが、選挙運動への積極的関与という行為自体がもつ上記法益侵害の危険性の評価にそれ程重大な関係があるとは思われない。要するに、公職選挙における選挙運動に行政公務員が深く結びつき、これに関わること自体が一個の大きな問題をもつものであり、その関与形態が行政公務員の政治的中立性を強くそこなうと認められる前記のようなものである限り、立法者が、これをそれ自体として一般的に行政の中立性とその能率的運営及びこれに対する国民の信頼の確保等行政公務員の政治的中立性を要求する根拠となる公共の利益に対する重大な侵害の危険性を有する行為類型と認め、右法益を保護するためにこれを一般的に禁止する必要性があると判断することには、これを支持する合理的根拠があると認めるのが相当であると考える。
次に、比較考量すべき他の要素である右の禁止が行政公務員の政治的自由に及ぼす制約の内容、程度、重要性についてみると、公職選挙における選挙運動の自由は、制度的には極めて重要な法益であるが、実際にこれに積極的に参加する者は国民のうち特別の関係や関心をもつ比較的一部の者に限られるというのが現実であることにかんがみると、制度的観点を離れて専ら国民個人の政治活動の自由の観点からみれば、前記態様による選挙運動への積極的関与の禁止が行政公務員の政治活動の自由の権利に対して加える制約の意味及び程度には限定的なものがあるとみても差支えないように思われる。
このようにみてくると、過度に広範な規制の危険に厳しい眼を向けるという立場の下においても、規則五項一号、六項八号所定の公職選挙における特定候補者への投票の勧誘「運動」の一般的禁止そのものは、刑罰法規の内容を定めるという面においても、これによつて制限される行政公務員の政治活動の自由に優越する公共の利益の保護のための必要やむをえない措置であるとする立法者の判断には、これを支持するに足りる合理的根拠があるというに妨げがなく、これを憲法上の基本権を不当に侵害するものとして違憲と断ずることは相当でないと思う。
四本件において第一審が適法に確定したところによれば、被告人は、一般職国家公務員である郵政事務官の身分を有する者であるところ、昭和四〇年六月一〇日公示、同年七月四日施行の参議院議員の通常選挙において、日本共産党から立候補した須藤五郎(全国区)及び石田千年(地方区)を支持して積極的な協力を申し出、その者らの選挙運動の計画的行事である個人演説会における応援弁士として第一審判決判示のような内容の候補者推せん、投票勧誘の演説をしたというのであり、右行為は規則五項一号、六項八号所定の投票勧誘運動にあたるものというべく、被告人において右行為をした以上、同人が右演説に際して自己の身分を明らかにしたことがなく、また、それが右候補者らやその属する政党との間の組織的なつながりその他の政治的背景の下でされたものではなく、専ら一書家としての立場からの発言としてされたものであるとしても、また、それが、職務と全く関係なく、かつ、勤務時間外に勤務場所以外の場所でされた行為であるとしても、これにつき規則の上記規定及び法一〇二条一項、一一〇条一項一九号を適用して被告人に刑を科したことになんら憲法及び法令違反の廉はないと考える。
裁判官団藤重光の反対意見は、次のとおりである。
国家公務員法(以下、国公法という。)一〇二条一項および一一〇条一項一九号は、職員の政治的行為の制限違反の罪の構成要件的内容の一部を人事院規則に委任している。国公法一〇二条一項は、もともと単に、「職員は、政党又は政治的目的のために、寄付金その他の利益を求め、若しくは受領し、又は何らの方法を以てするを問わず、これらの行為に関与してはならない」と規定していたのであるが、昭和二三年法律二二二号により現行法のような形に改められて人事院規則への委任が規定され、とくに罰則との関係で、問題を生じるにいたつたのである。
これについては、すでに当裁判所は猿払事件判決(昭和四四年(あ)第一五〇一号同四九年一一月六日大法廷判決・刑集二八巻九号三九三頁)および徳島郵便局事件判決(昭和四六年(あ)第二一四七号同四九年一一月六日大法廷判決・刑集二八巻九号六九四頁)において、その合憲性をみとめるにいたつている。しかし、両判決には、いずれも大隅裁判官をはじめとする四裁判官の反対意見があり、この反対意見は傾聴に値するものと考える。
なるほど人事院規則は、組織の上でも権限の行使の上でも独立性と中立性(国公法五条、八条、九条、一三条等)をみとめられている人事院の決議によつて制定されるものであるが(国公法一二条六項一号)、その制定について国民の側からの控制はまつたく及ばないのであつて、その点では、人事院規則への委任と政令への委任とを比較して、前者をゆるやかにみとめるべき理由はない。地方公務員法(三六条二項五号)が政治的行為の制限を規定するについて一部を条例――それは地方議会によつて制定される点で法律に準じる性格をもつ――に委任しているのとは(しかも、地方公務員法には政治的行為の制限違反に対する罰則を設けていない。)、趣を異にするのである。
憲法七三条六号によれば、政令には、法律の特定委任がなければ罰則を設けることができないものとされている。人事院規則への罰則の委任も、すくなくとも同様の要件のもとにおいてのみ許されるというべきであろう。
そこで、国公法一〇二条一項が人事院規則への委任について、どの程度の限定をあたえているかをみるのに、そこには、「選挙権の行使を除く」ということと「政治的行為」ということがあるだけである。しかも、選挙権の行使を制限することができないのは憲法上あまりにも明白であるから、つまりは「政治的行為」という限定があるにすぎないわけである。
もともと、国公法一〇二条一項は公務員の政治的中立性を保障することを目的とするものであつて、それじたいは当然の規定であるが、それが犯罪の構成要件的内容をなすところに問題があることは、前述のとおりである。前記両判決における反対意見が指摘するとおり、「公務員関係上の権利義務として公務員の政治活動の自由に課せられる法的制限と、一般統治権に基づき刑罰の制裁をもつて課せられるかかる自由の制限とは、その目的、根拠、性質及び効果を全く異にする」のであり(前掲刑集四一八頁)、「単に国家的、社会的利益を守る必要があるとか、当該行為に右の利益侵害の観念的な可能性ないしは抽象的な危険性があるとか、右利益を守るための万全の措置として刑罰を伴う強力な禁止措置が要請される等の理由だけでは、かかる形における自由の制限を合憲とすることはできない」というべきであろう(前掲刑集四一九頁)。
そこで、わたくしは、右両判決における反対意見の指摘するように、罰則の関係においては、国公法一〇二条一項の人事院規則への委任を違憲とすることは相当の理由を有するものと考えるのであつて、これを合憲とみるためには、罰則に関するかぎり、特定委任といえる程度に、この規定をしぼつて解釈する以外にないとおもう。すなわち、公務員の政治的行為であつて、公務員の政治的中立性ないしこれに対する国民の信頼を現実に害するもの、すくなくとも、これを害するような具体的な危険性があるものにかぎつて、その内容の規定を人事院規則に委任したものと解することによつて、かろうじて、この規定の合憲性を肯定することができるものと解するのである。
「政治的行為」についての現行人事院規則一四―七を通覧すると、各項号の組合せのいかんによつては、公務員の政治的中立性ないしこれに対する国民の信頼を害する危険性のきわめて稀薄な行為までが含まれることになるのであり、その中には、公務員に対する単なる訓示規定としてはともかく、懲戒処分の原由としてさえ、問題になりうるものがあるとおもわれる。まして、そのような態様のものを含むすべての規則違反行為が刑事罰の対象となると考えることは、とうていできない。わたくしは、国公法一〇二条一項の委任の趣旨を前記のように解し、したがつて、この規則の違反行為は、それが公務員の政治的中立性ないしこれに対する国民の信頼に対する現実の侵害ないし侵害の具体的危険性がないかぎり、国公法一一〇条一項一九号の罪の構成要件該当性を欠くものと考える。
いま本件についてみるのに、原審の認定した事実のもとでは、被告人の行為がはたして右のような具体的危険性を有するものといえるかどうかは疑問であり、さらにこの点についての審理を尽くさせるため、原判決を破棄して本件を原審に差し戻すのが相当であると考える。
裁判官谷口正孝の反対意見は、次のとおりである。
原判決の肯認した第一審判決の認定によれば、被告人は高松地方簡易保険局に勤務する一般職の郵政事務官であるところ、職務外に書を志して南龍と号し、かねて中原一耀の主宰する墨花書道会に所属し、その有力な幹部をつとめ県展等各種展覧会に入選の経歴を持つ者であるが、その書道の稽古研究を通じて共産党の政策に共鳴し、また香川文化の会の会員としての活動を通じて第一審判示の昭和四〇年七月四日施行の参議院議員通常選挙において日本共産党から香川地方区候補者として立候補した同判示石田千年と親しくなり、敬愛の念を持つとともに、被告人の職場に石田候補の妻が在職したこともあつて、右選挙に際し書道家の立場からの協力を申し出て、さらに日本共産党香川県委員会選挙責任者(対策部長)道下養成から選挙運動の計画的行事である右候補者及び日本共産党から同選挙に全国区候補者として立候補した須藤五郎の個人演説会における応援弁士を依頼されて同判示の石田千年及び須藤五郎の各個人演説会場においていずれも応援弁士となり、司会者から書道家大坪南龍として紹介され、それに引き続いて同判示の内容の演説をしたというのである。
そして、被告人の右行為が勤務時間内及びその勤務場所または勤務場所と関係のある場所でなされたものでないことはもとよりとして、職場の組織を通じ、あるいは職員関係を利用してなされたものではなく、専ら書道家大坪南龍としての立場でなされたものであること、その演説内容も書道または文化活動の面から右石田、須藤をたたえ、共産党の掲げる政策に賛成する旨を述べたものであつて、国家公務員の立場からする言及は一切なかつたこと、また、その際被告人が前示国家公務員の身分を有する者であること等の紹介もなかつたことは本件記録上明らかなところである。
ところで、国家公務員は多かれ少なかれ国政の運営に関与するものであるから、国家公務員のする選挙に関する政治活動が行政の中立性ないしこれに対する国民の信頼をゆるがすおそれがあり、民主的政治過程を不当にわい曲する危険を招くばあいがあるので、公務員の政治的行為の禁止が合理的で必要やむをえない限度にとどまるものである限り、憲法の許容するところと解すべきことは多数意見に引用する当裁判所大法廷判決の示すとおりである。
しかし、公務員関係上の権利義務として公務員の政治活動の自由を制限することと、その制限違反のいかなるばあいを犯罪として刑罰を以つて律するかということとは次元の異る問題である(昭和四四年(あ)第一五〇一号同四九年一一月六日大法廷判決・刑集二八巻九号四一〇頁以下の反対意見参照)。
およそ人の行為が犯罪として処罰されるためには、抽象的危険にせよ法益侵害の危険がなければならない。およそ法益侵害の危険を伴わない行為を違法として処罰することは、刑罰法の基本原則に反する。そのことは、本件のごときいわゆる形式犯についても同じである。
ところで、本件において被告人の所為に適用される国家公務員法一一〇条一項一九号、一〇二条一項、人事院規則一四―七は、前に述べた国家公務員の政治的中立性ないしこれに対する国民の信頼を保護法益とするものであるが、そこで禁止処罰の対象となる行為の違法性は行為の主体が国家公務員であることによるものであつて、行為主体の身分によるものである。そして、行為の違法性がその主体の身分的属性により導かれるものである以上、行為がその主体の身分的属性と全く関係なく行われたばあい、すなわち、行為並びに行為の附随事情を通じて行為主体の身分的属性が毫も当該行為と結びついてこないばあいには、抽象的にせよ法益侵害の危険性はないものというべく、行為者がたまたま国家公務員の身分を有するとの故を以つてかかる行為についてまで、右罰則を適用することは前記刑罰法の基本原則に反し許されないところといわざるをえない。右罰則の解釈適用についてはやはり刑罰法を支配する謙抑主義による厳格解釈の必要がある。そしてその作業は法規の文言に拘らず構成要件該当性の判断の作業である。行為者がたまたま国家公務員の身分を有していることの一事により行為の危険性を捨象して一律に右罰則に該るとすることは、憲法三一条に反するものといえよう。
さて、本件被告人の所為については、前記説明のとおりであつて、それは被告人の国家公務員たる身分を離れ専ら私人たる書道家大坪南龍としてなされた行為であり、同人の個人生活に属するものというべく、行為の内容、行為の附随事情についてみても、国家公務員たる身分は捨象され、被告人の国家公務員たる身分に基く行為の抽象的危険性を認めることは記録上困難である。
してみると、被告人の本件所為は未だ前記罰則の構成要件、すなわち国家公務員として選挙に関する政治活動をしたものと断定することはできないものと考える。
(藤﨑萬里 団藤重光 本山亨 中村治朗 谷口正孝)
弁護人高村文敏、同阿河準一、同宇賀神直、同金澤隆樹、同久保和彦、同佐藤義弥、同竹澤哲夫、同東垣内清、同林伸豪の上告趣意<省略>